思考をアウトプットするのが苦手な人の話。
自分の中で思考というものは、ぐちゃぐちゃの重ね合わせのようなイメージがある。
結論がわかり思考の逆引きができる、というような(自分から見て)頭の良い人間のものとはひどく異なるのだ。
技術屋を名乗るのであれば、何事も説明できたほうがいいのかもしれない。
ただ、思考のイメージがどうも合わない。
「AがあってBがあるからCが求められる。」が分かりやすくいいと思う。
「(無意識の中でAや類似のA’やDが浮かんでおり)BがあるからCが求められる。」と説明する。
すると、「そもそもBはどこから出てきたのか」という問題が発生する。
つまり、Aを言語化しようとすると類似のA’が思考から消えてしまうような気持ちになってしまう。
Dも直接的に関係はないが、類似しており手がかりになった場合もある。
Aと類似のA’、Aと無関係だが類似しているDがあり、BがあってCがあるとき、A,B,CをアウトプットするとA’やDが排除されてしまう。
説明するときにA’やDのことは伝えられず、重ね合わせから消えてしまう。
そうなると思考の幅が狭くなってしまうと感じるのだ。
唯一の答えや冴えたやり方があり、そのことを逆引きし順序を文章に起こすのであればやりやすいのかもしれない。
ただ、重ね合わさった思考の中から、ひょいっと掴み取ったものが「たまたま答えになった」と自分は思ってしまうのだ。
そうなると文章として書き出すのが、非常に難しいものとなってしまう。
「どうしてその結果にたどり着いたのか、どうしてそのアイデアが思いついたのか」と問われると言葉に詰まってしまう。
自分としては、『過去に仕入れた情報や、単語の繋がりから想定できる情報を元に思考すると「たまたま」答えとなる行動だった』という結論に至る。
そうなるとアウトプットが非常にふんわりしたものになる。
周りが判断する際、面倒なことになりやすいのだ。
理由があるから、答えや結論があるのは間違っていないと思う。
だが、自分の中で理由が見えないというのは非常に苦しい。
結論にたどり着いたとして、その結論に至った理由が個人の経験によるのであれば、他人が参考になるようなアウトプットの意味をなさないのではないか。
技術記事などのアウトプットが大事という話はよく聞くし、理解できる。
ただ、説明のできぬ、理由のわからぬアウトプットはしていいものか…という雑記でした。