社会は善意で動いているという。
善意がなくなった場合、どうなるのか。

そんなことを、Xで見かけたあるポストを読んで考えていた。
社会がまだ何とか保たれているのは、真面目で誠実な人たちが、損していると言われながらも、まだ諦めずに仕事や生活をしてくれているからではないか、という内容だった。

信号を守ること。
書類を正しく出すこと。
誰も見ていない場所で手を抜かないこと。
自分だけが得をする抜け道を見つけても、それを使わないこと。

そういう小さな積み重ねで、社会は何とか形を保っているのだと思う。
法律や制度があるから社会が保たれる、というより、法律や制度だけでは足りない部分を誠実と呼ばれる人たちが日々埋めている。

ただ、その誠実さに限りはあるはずだ。

51%攻撃という比喩

ビットコインなどの文脈で「51%攻撃」という言葉がある。

ざっくり書くと、ネットワーク全体の計算力の過半数を悪意ある主体が握ることで、取引の承認やブロックの並びに影響を与えられる状態にさせることを言う。
何でも好き放題できるわけではないが、二重支払いを狙ったり、特定の取引を妨害したりできる可能性が出てくる。

重要なのは、外部からシステムを壊すというより、システムの前提を内側から利用する点だ。

分散システムは、多数派がある程度正直に振る舞うことを前提としている。
その前提が崩れると、ルール自体は残っていても、ルールへの信頼が壊れていく。

現実も似たところがあるのではないか。

多くの制度は、人間が必ずルールに沿うことを前提にはしていない。
だから罰則があり、監査があり、契約があり、記録が残る。

しかし同時に、完全に悪意ある人間だけで構成されることも前提にしていないはずだ。
全員が常にルールの穴を探し、自分だけが得をする行動を最大化しようとするなら、制度はすぐに重くなり、動かなくなる。

つまり社会も、ある程度の「正直な計算力」に依存していると言えるだろう。

社会における51%攻撃

社会における51%攻撃は、悪意ある人が人口の51%を超えた瞬間に起きるものではないと思う。

もっと少ない人数でも、制度の要所にいれば十分に影響を与えられるかもしれない。
意思決定をする場所、資本が集まる場所、情報が流通する場所、評価が決まる場所。
そういう場所で、ルールの隙間を突くことが常態化すると、社会全体の前提が少しずつ壊れていく。

「禁止されていないから問題ない」
「ルール上はセーフ」
「気づいた人だけが得をする」
「これはハックだ」

こういう言葉は、時にとても便利だ。

もちろん、ルールの範囲内で工夫すること自体が悪いわけではない。
制度の不備を見つけることにも意味はある。
非効率な仕組みを改善することも大切だ。
私も、不備や悪用できそうなモノを探すのは好きな部類の人間である。

だが、他者の善意や制度の余白を食いつぶし、利益を得る行為を「賢いハック」と呼ばれるのは違和感が残る。

「賢いハック」が続けば、「真面目にやる意味はあるのか」と思い始めてしまう人も出てくるだろう。
もう思っている人も多いかもしれない。

社会が壊れ始めるのは、悪意ある人が過半数になった時ではない。
誠実な人たちが、誠実でいることに疲れた時ではなかろうか。

それはハックなのか

私は「ハック」という言葉が好きだ。

仕組みを理解し、別の角度から使い、より良い方法を見つける。
そういう意味でのハックは、創造的で楽しく素晴らしいと思う。

ただ、最近は「ハック」という言葉の範囲が広がりすぎている気もする。

抜け穴を突くこと。
他者の善意にただ乗りすること。
明文化されていない信頼を利用すること。
システムの想定外を悪用すること。

それらまで「ハック」と呼んでしまうと、加害性の内容が薄まる。
本来はクラッキングや搾取に近い行為まで、少し知的でスマートなものに見えてしまう。

言葉は大事だ。

「ハック」と呼ぶことで、本当は誰かに負担を押しつけているだけの行為が、創造的な工夫に見えてしまうことがある。
「要領がいい」と呼ぶことで、本当は他人が守っている前提にただ乗りしているだけの行為が、能力のように見えてしまうことがある。

そのすり替えが積み重なると、真面目で誠実であることの価値が削られていく。

何%で壊れるのか

ルールの隙を突いたり、ズルをしたりして儲けようとする人が、人口の何%以上を占めたら社会は壊れ始めるのだろうか。

51%という数字は分かりやすい。
ただ、社会においては過半数も必要ないと思っている。

たとえば、ほんの一部の人が制度の抜け穴を利用して大きく得をする。
その負担は、多くの誠実な人たちに薄く広く押しつけられる。
一つひとつの負担は小さいので、すぐには問題にならない。

だが、それが何度も続くと、空気が変わる。

「どうせ正直者が損をする」
「ルールを守る方が馬鹿を見る」
「みんなやっている」
「自分だけ守っても意味がない」

こうなった時点で、かなり危険だろう。

制度は壊れずとも、制度を支える気持ちが壊れ、ルールは残れどルールを守る動機が削られる。
社会の閾値は、悪意ある人の割合ではなく、誠実な人がどれだけ諦めずにいられるかで決まるのではないか。

どう防ぐのか

では、どうすればよいか。

「一人ひとりが真面目で誠実に生きましょう」で終わらせるのは、良くない。
それはただの精神論で、効き目は薄い。
既に真面目で誠実な人に、さらに負担をかけるだけの結果になるだろう。

必要なのは、善意に依存しすぎない設計だと思う。

ズルをした方が得になる構造を放置しない。
ルールの穴を見つけた人だけが利益を得る状態を是正する。
検証可能性を上げる。
監査できるようにする。
誠実な人が損をし続けないようにする。

同時に、気持ちや文化の問題もある。

抜け穴を突いた人を、無邪気に「賢い」と称賛しないこと。
他者の善意を利用した行為を「ハック」と呼ばないこと。
制度の隙間を突くことで得た利益の裏側に、誰の負担があるのかを見ること。

技術の世界であれば、ハックとクラッキングを分けて考える必要がある。
社会でも同じなはずだ。

仕組みを理解し、より良くするための創造的な逸脱はいいものだろう。
だが、仕組みを理解した上で、他者や共同体に損害を押しつける行為は別物だ。

そこを曖昧にすると、言葉が加害性を隠してしまう。

善意の計算力

社会は、真面目で誠実な人たちの善意によって保たれている。

誰かが少し多めに確認している。
誰かが面倒でも記録を残している。
誰かが見えない場所で手を抜かずにいる。
誰かが損をしても、ルールを守っている。

その無数の選択が、社会の「正直な計算力」になっている。

51%攻撃を防ぐには、悪意ある人をゼロにする必要はない。

それよりも、誠実な人たちが誠実でいることを諦めなくて済むようにすること。
善意を燃料のように消費し続けないこと。
ハックという言葉で、ただの搾取を飾らないこと。

社会が壊れるのは、悪い人が急に増えた時だけではない。
真面目で誠実な人たちが、静かに消えていく時でもある。

だからこそ、真面目さや誠実さを個人の美徳として消費するのではなく、持続可能なリソースとして扱う必要があるはずだ。