学生のころ、自分は「なんやねんこれ」と思うところから学ぶことが多かった。
名付けるなら「疑問駆動」とでも言うのだろうか。

きれいに整えられた教材や手順よりも、少しわかりづらい仕組み、うまく動かない環境、公式には丁寧に説明されていない抜け道のようなものに触れたときの方が、強く調べた記憶がある。

もちろん、何をしてもよいという話ではない。
法律や規則に反してよいわけでもない。
ただ、学生が何かを試そうとするとき「もっと便利にしたい」「仕組みを理解したい」「自分の環境を自分で扱えるようになりたい」という学びの芽が含まれていることがある。

「なんやねんこれ」から始まる学び

学生のころは、大学の仕組みに対して「わかりづらい」「なんやねんこれ」と思うことが多かった。

手順がどこにあるのかわからない。
公式の説明だけでは実際の作業にたどり着けない。
そもそも説明すらないときもある。
できそうなのに、なぜかできない。

引っかかりを解決しようと調べる。試す。人に聞く。うまくいかなければ、別の経路を探す。

今思えば、それ自体がいい学びだったかもしれない。

最初から手順や方法が用意されていれば、間違いなく使っていただろう。
しかし、その途中で必要になった調べ方、仮説、検証、失敗などの経験は、最初から用意された道からは得にくかったと思う。

その感覚は、今の自分が人を支援するときにも残っている。

自分が支援する側に回ったとき、すぐに答えを渡さないことがある。

「こうすればできるよ」と手順を示す代わりに、「これって、あれに近いけど調べられそう?」と返すことがある。
それは少し不親切に見えるかもしれない。
けれど、自分の中では、相手が自分で掴みにいく余白を残すためのやり方でもあった。

秩序の側に立って見えたこと

大学職員になってから、学生の時と反対側の事情も見えるようになった。

学生のころなら「なぜこんなに使いづらいのか」と思っていた仕組みにも、運用する側の理由がある。
セキュリティ、責任範囲、利用者間の公平性、設備の限界。
学生の探索心を尊重したい一方で、組織として守らなければならない線もある。

たとえば、大学のネットワーク利用ひとつをとっても、学生の立場では「こちらの経路の方が開発しやすい」「この接続方法が自由度が高い」と感じる場面がある。
実際、特定のネットワーク環境では、プロキシ設定を行わなければ、開発用ソフトのインストールができず、作業そのものが止まってしまうこともある。
学生の立場で考えれば、不便極まりないだろう。

一方で、大学側には帯域の限界、セキュリティ、責任範囲、公平性といった事情がある。
少人数なら問題にならない運用でも、多人数に広がれば維持できなくなることがある。
学生にとって便利な経路が、大学全体の運用として許容できるとは限らない。

自分は「それは駄目です」だけで終わらせたくはない。

学生がなぜそれを求めるのかは理解できる。
けれど、大学として、なぜ慎重にならざるを得ないのかも説明する。
その両方を共有したうえで、どこまでなら試せるのか、どこからは越えてはいけないのかを一緒に考えている。

学生のカオスをどう扱うか

自分が目指しているのは、大学という秩序と、学生というカオスの間に立つことなのだと思っている。

大学は秩序の側にある。
規則があり、責任があり、継続的に運用しなければならない仕組みがある。
その秩序がなければ、多くの人が安心して学ぶ環境は維持できない。

一方で、学生はカオスの側にいる。

まだ知らないからこそ、雑に試す。
納得していないからこそ、疑う。
便利にしたいからこそ、別の方法を探す。
その行動は危うさを含むが、学びの勢いもある。

秩序だけでは、学生の探索心は萎んでしまう。
カオスだけでは、環境は壊れてしまう。

必要なのは、どちらか一方に寄せることではなく、その間に立つことなのだと思う。
学生の試行錯誤を頭ごなしに止めるのではなく、かといって何でも許すわけでもない。
なぜその線が引かれているのかを説明し、どこまでなら考えてよいのかを示す。
そういう、学生に理解のある職員でいたいのだ。

ちょうどいい不親切

支援は、親切であればあるほどよいとは限らない。

情報がゼロだと、人は挑戦できない。
入口が見えなければ、諦めるしかない。
暗黙知やグレーな領域が多い環境で、完全に放置することは好ましいと言えない。

しかし、準備しすぎることにも問題がある。

すべての手順を整え、すべての失敗を先回りして潰し、答えだけを渡してしまうと、学生は作業者になってしまう。
自分で調べること。
仮説を立てること。
うまくいかない理由を考えること。
誰かに聞くために、自分の困りごとを言語化すること。
準備がされすぎると、自身で考えることが減ってしまう。

不親切であればよい、というわけではない。
必要な前提を渡さないこと、困っている人を放置すること、知っている人だけが得をする状態を作ることは、良くない。
けれど、適切に設計された不親切さは、学びの余白にもなる。

自分が大事にしたいのは、たぶん「ちょうどいい不親切」なのだと思う。

入口は示し、危ない部分は説明する。
ただ、最後の一歩まで進みはしない。

学びを奪わない支援とは

良い支援とは、答えを整えて渡すことだけではないはずだ。

相手が自分で問いを持てる状態を作ること。
何を調べればよいか、少しだけ見えるようにすること。
越えてはいけない線を共有しながら、線の手前で試行錯誤できる余白を残すこと。

大学という秩序と、学生というカオスの間に立つ。
その中庸の場所で、学生が諦めず、しかし単なる作業者にもならないように支援する。

自分にできることは、そういう足場を作ることなのかもしれない。